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容赦なし!


ウィトゲンシュタイン

珈琲男さんのブログで哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる邸宅を見せてもらった。綺麗な姿だった。例外を許さないで、静かにひとつひとつを決めてバランスよく積み重ねていく。整っているとか破綻が無いとかそんな言葉が浮かんだ。この種の美しさは怖い。

ウィトゲンシュタインはどんな人だったのか、検索してみた。ん〜、しんどい。直角定規で書かれたような文章をトウフ頭に押し込もうとしてみるが…。私は充填豆腐よりもおぼろ豆腐が好きだ。ウィトゲンさんは、おぼろ豆腐を分子レベルまで追求して、数式に当てはめて、次に箸を入れたとき豆腐がどう崩れるか正確に導き出してしまいそうだ。数式の対象にしようと、醤油をかけて食べてしまおうと、豆腐は豆腐だ。 文句あるか。(脳内雷豆腐状態)

ジョゼフ・コスースの作品で、「1つと3つのシャベル」とうものがある。実物のシャベル、そのシャベルの実物大の写真、辞書にあるシャベルという言葉の定義を並べたものだった。また、脳科学という番組でパソコン上の複数の光の点が動いているのを見せて、何に見えるかと問いかけたところ、全員が人が歩いていると答えた。どうやらそのあたりの話らしいと見当をつけてみたが、近いのやら遠いのやらよく解らん。

20世紀の芸術家たちは「芸術とはなにか」を問い続け、画家は絵筆もカンヴァスも色も形も捨て、建築家は虚飾、装飾を剥ぎ取ってキューブのような建物を作った。信じるものに忠実に、例外を許さず容赦ない捨て方だった。こういった容赦の無さが私には恐ろしい。唯一絶対の神を信じる宗教は、異端、異教徒を認めず、惨殺、皆殺しの歴史を持っている。ローマカトリックの火あぶり、プロテスタントに対する十字軍、大航海時代の原住民の皆殺し、プロテスタントによるユダヤ教徒の殺害、中国の文化大革命。みな容赦が無い。1か0の世界だ。

日本も戦国時代には皆殺しがあった。争う両者のうち生きるのはどちらか一方だけ。天皇を神として戦ったときには虐殺もあった。人間が生き物としての能力や、倫理観、バランス感覚を発揮できない状況でそういったことが起こる。正しいと信じた思想、信じた神からの宣託、信じた団体の意思に従わねばならなくなったとき、人はバランスを失う。

ウィトゲンシュタインがデザインした建物が人を皆殺しにするはずもないが、貫かれた理論は神と同じで、対立する理論や論にさえならない考えや感覚を認めない。まともにとりあげる価値すら無いと押さえつけることもある。徹底して排他的でなければ自らが存在できない。そんなふうに思う。誤解だろうか。キリスト教徒とイスラム教徒は今後どうなっていくのだろう。

容赦のない世界は、正しいものだけが存在し、美しい。ひとつの完成形として、ある意味、神の世界なのだと思う。しかしそこに人が居ていいのだろうか。そこに人が居て心地いいのだろうか。人は例外だらけの存在だ。人類には今の環境では生きにくい遺伝子を持つ人が必ず一定の割合で生まれてくる。万一環境が変わったときには、そういう人達が生き残るようになっている。生物としてのバランスだ。

曖昧で宗教も持たない野蛮人かもしれないが、神様と契約もせず、ただ、天知る、地知る、己知る。お天道様に感謝して、自然の精霊を敬って、それで生きられるのなら満足だ。正しく美しい神の世界に足を踏み入れた人間が、幸せになれるとはどうしても思えない。

神の世界の美しさは、曖昧な人間には恐ろしい。支配される恐怖が背後に隠されているように感じる。ウィトゲンシュタインのデザインした家は、そんな怖さを感じさせる。


posted by 八識 | Comment(6) | TrackBack(0) | 藝術見聞録
この記事へのコメント
一神教の容赦なさですか。いわゆる偶像禁止令にも徹底性が表れていますね。
聖書の理念を最も忠実に体現した国が、イスラエルとアメリカという最も好戦的な国であるというのも皮肉なお話で。

ウィトゲンシュタインハウスの潔癖ぶりは確かに恐ろしいものです。ウィトゲンシュタイン自身、確かウィーン時代の自分の思想を「摩擦の存在しない世界」とまで例えています。そこを現実に歩もうとすると滑ってしまい、一歩も進めないと。
ロンドンに亡命してからはむしろざらざらとした現実感覚に注目するようになったようです。
Posted by 珈琲男 at 2005年08月09日 02:58
容赦の無さは誰でも持っているものですが、一神教の特質のように決めてしまうと便利なので、つい…。
本当のところは、何に由来する性質、どんな状況で顕在化する性質なのかということも、気なるところです。

「一歩も進めない」「摩擦の存在しない世界」に到達しようとするのは何でなのか、突き詰めたところに極楽があると信じているからなのか、不思議です。

臨死体験者が、あたりまえの日常に以前と違った重みを感じるという話をよく聴きますが、それに近いものなのでしょうか。

今日は延暦寺へ坊さんの声を聴きに行きます。
脳内温度も少しは下がるのいいのですが。
Posted by 八識 at 2005年08月09日 04:51
宗教に見られる価値絶対主義には、
口で「彼等は邪教の徒、私たちの教えは正しい」と言うことから始まって、テロや転向強要を実践するに及ぶことまでありますが、
どこまでが「恐ろしい」範囲にはいるでしょうか。
もし、前者も含まれるならば、あらゆる宗教、仏教も潜在的には「恐ろしい」ことになります。3大宗教のうちの2つまでしか触れていないので、ちょっと、気になりました。

イスラム教は、従来は、それほどの排他性はもっていなかったように思われます(例.平和の家)。一方、歴史を見るならば、仏教も、極めて強い排他性を持つに至った場合もあるようです。他の宗派と対立して武力衝突するような事態ですね。もちろん、そんなもの仏教じゃない!というならば、テロを実践するような原理主義者と呼ばれる連中は正統なイスラム教徒ではないと言う主張があることも思いださねばなりますまい。いかなる宗教も、「テロ」の契機をもっていて、仏教も例外ではないのではないかと思えます。

宗教を持たない野蛮人が幸福であるとおっしゃる一方で、仏教の縁強い唯識さんにご意見をお聞きしたいです。
Posted by レタールール at 2006年08月22日 20:30
レタールールさん
コメントありがとうございます。

私には宗教を論じるほどの経験も知識もなく、レタールールさんのコメントもどれほど理解できているか疑問ですが、

「たった一つの(その人にとっての)真実」以外はすべて間違っている、排除すべきだと信じている人の言動は非常に恐ろしいと思っています。

仮に上記のような人や団体があって、自分の周囲から間違いをすべて排除した環境があるとした場合、それは(神のみが存在すべき環境であって、人には)大変不自然な、あってはいけない環境であると私には思えます。

その環境を一神教の世界に例えることが間違っているのなら、1と0で現せる世界に例えるべきなのかもしれません。

上のコメントにあるように
>容赦の無さは誰でも持っているものですが、一神教の特質のように決めてしまうと便利なので、つい…。
ということです。ステロタイプの安易な例え方をすべきではなかったと思っています。
レタールールさんはこのことをご指摘くださったと理解しておりますが、見当違いでしたらお許しください。

そして、(正しいと信じる一つの事以外のすべてを排除するという行動は)
>本当のところは、何に由来する性質、どんな状況で顕在化する性質なのかということも、気になることではありますが、
(人として本来持っている特質なのか、環境によって生じるものなのか)少し考えた程度で理解できるものではないと思っています。

ウィトゲンシュタインハウスの美しい形態は、その形態を作り出すに至った(容赦なく多くの要素を切り捨てたであろう)考え方が恐ろしくもあり、その結果の形態の美しさが(神のみが所有すべき美であるように感じられて、人である私には)畏ろしくもあると感じました。

話が噛みあっているといいのですが…。
Posted by 八識 at 2006年08月23日 14:07
いずれの宗教であれ、「一つの」教えや神のみを絶対化している場合は、問題であるということですね。

 ヴィトゲンシュタインは、考え方や目的をその家に表しただけで、本心では、そんな家に住みたいとは思えなかったのかもしれません。彼は、教員時代に教え子を殴ったにもかかわらず嘘をついて難を逃れたそうです。彼はそれについて後年まで気に病んでいたそうですが、彼自身の理念と現実の不一致に対する憤りを暗示させるもののような気がします。彼の日常は隠者のようで、金銭面でも執着がなかったと聞いたことがあります。その極端なところにも意味がありそうですね。彼はこの作品を「住居」として表現したのか、それとも一つの作品(パリコレの作品のように美しい(?)が、実用的ではない作品)としてつくったのか。ちょっと気になります。いづれにせよ、ある種の純粋性に対する憧れが含まれているのでしょうね。
Posted by レタールール at 2006年08月24日 02:14
「一つの」教えや神のみを絶対化すること
 と、
他を(容赦なく)排除すること

が=でつながる(宗教)なら問題アリと私は思っています。

その例として、
20世紀の建築家たちが「装飾」を容赦なく排除したこと。
一神教が異教徒の命を容赦なく排除した歴史。
天皇を神とする日本軍が虐殺を行った歴史。
などを挙げました。

他を排除しなければ、自己実現ができないと信じる脅迫観念のようなものが核にあるのかもしれません。

怖いのは「他を排除しなければ、自己実現ができないと信じる」人、団体、状況だと書くべきでしたね。

最初、記事を書いたときは、「一つの何かを絶対であると信じている=他を排除する」と簡単に考えていましたし、無知な連想から、「一つの何かを絶対であると信じている=キリスト教、イスラム教」と乱暴に繋げてしまいました。

日本人=日本軍=虐殺と簡単に繋げている人もアジアには多いのだと、知っているはずなのに、私も同じでした。
ご指摘くださり感謝しています。

ヴィトゲンシュタインなる人物も名前以外は殆ど知りませんし、住宅が当たり前のように芸術作品となる世界の存在を知ったのも最近のことです。

自分とかけ離れた世界を知るにつけ、何で、どうしてと騒ぎながらも、知りたいという思いが強くあります。足掻きながらヨタヨタと道を外しているときもあろうかと思います。
そんなとき、よろしければまたご教授いただければ幸いです。

純粋であることは、美しいのかもしれませんが、やはり私は怖さの方を先に感じてしまいます。
「ある種の純粋性に対する憧れ」の内に「畏れ」はあったのか、なかったのか、想像が膨らみます。
Posted by 八識 at 2006年08月25日 02:05
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